{物々交換と貨幣経済}
フランスとドイツの〈物〉の概念は非常に異なっている。両国の法制はその他の面でも異なっており、法制史上も議論があるが、その背景には歴史的に見て、多分売買における貨幣経済の相違が非常に強くあったのではないかと思われる。
ドイツの代表的な経済学の一つであったマルクス(一八一八ー一八八三)の『資本論』では、まず使用価値と交換価値について論じ、交換価値の基準として労働時間を持出している。このような交換価値の基本には物々交換経済がある。タキトゥス(五五ー一二〇)の『ゲルマニア』では、物の交換の仕方として、物々交換や、贈物とその返礼の交換が行われていたことが示されている。*4以下の記述はタキトゥス、泉井訳『ゲルマニア』(岩波文庫)43頁)。贈物と返礼は、その後ドイツ経済の中心であったハンザ同盟がドイツ・北欧・ロシアなどで贈物貿易を行っていたことにも現れていて、『ニーベルンゲンの指輪』に出てくるグンテル王とブリュンヒルデの贈物交換の場面は、当時の交易の形態がこのようなものであったことを髣髴とさせる。
初めのうちは贈物に対する返礼は自発的なものであったが、後になると交換は等価でなければならなくなる。そして交換するものの価値が少ないときは等価の物にするよう相手に要求できるという法的規範にすらなっていった。*5広中俊男『契約とその法的保護』(創文社)66ー67頁)。そして多分これらの交換価値は、例えば三日がかりで捕まえた動物の毛皮というように、労働時間で測られていたのであろう。これこそが『資本論』で示された価値形態そのものである。
中世のサリカ法典(六世紀)において、我々が現在債権としてとらえている概念には、貸したものを返して貰うということしかない*6久保訳註『サリカ法典』(弘文堂、1949)86頁)。そしてこれらの地方では貨幣こそあったものの、貨幣の鋳造はしばしば中断されている。つまり貨幣経済が定着してはいなかったのである。
そしてドイツにおける所有(Gewerbe)の概念では、占有と所有の概念が分離していないという特色を持っていて、具体的なものでなければ権利の対象とはならなかった。このような法の思想環境がドイツ民法の〈物〉の概念に広がりを与えなかったのである。
知的所有権は、民法上の〈物〉の概念から離れて、無体物といわれるが、無体物の一つであるサービスの概念は、『資本論』にはなかったし、また一八世紀末にドイツで誕生した商品学においても、サービスの概念はやはり最近までなかったのである。
そして現在のドイツにおいても、消費者がイメージ・マーケティングには説得されないので、消費者向けのサービス業やビジネスサービスでの需要の発達が遅れているとされている。*7M.E.ポーター、土岐・中辻・小野寺・戸成訳『国の競争優位 上』(ダイヤモンド社、1992)520頁)日本人がブランド物に飛び付くのとは逆の民族性である。
一方古代のギリシャやローマでは、エジプトが金を交換手段として用いており、かつ大量の金を支出していたことから、歴史の始った当初から金本位とでもいうべき交換手段を確立しており、交換価値を金の重さで決めることにはいささかの疑問もなかったのである。
これらの地方が古来貨幣経済に馴染んでいた証拠として、貸金における利子を挙げることができる。利子は交換における価値を測る数量的な基準(貨幣制度)が確立していなければ発生できないからである。
利子は旧約聖書においてモーゼの律法に出てくるし(出エジプト記二二章二五節)、紀元前四五〇年の十二銅表法では一年の利子の最大限を八・三三%に制限している。物の価値を金額で測定することが一般化すれば、金額で表されるものであればすべて財産であるという、抽象化された概念ができても不思議ではない。
ナポレオンが積極的に参加して編纂し、南フランスの慣習法を強く取り入れたフランス民法においては、〈物〉は動産と不動産に分けられているだけであるが、法律的な保護を受けるべき対象ならばとくに制限はない。
このようにみてくると、民法上の〈物〉の概念の特色は、その遠因が他の事例と等しく、古代から中世に掛けての交換形態の相違に求められよう。
かなり強引な説明ではあるが、このような売買の概念の相違、すなわち経済様式の相違は、当然のことながら異なる法習慣を作り上げ、保護されるべき対象についての概念を異質のものとする。
日本においては初めフランス民法を元にした旧民法が作られたが、後にドイツ民法を中心とした現行民法に変更された。
日本において現行民法が残した大きな問題は差止請求権である。民法起草者たちは法律が複雑になるというので、占有の規定以外では差止の規定を置かなかった。そして裁判所は差止の規定がないのに困惑し、とくに知的所有権においては、仮差止の規定のある著作権法を除き、差止を認めなかった。むしろ特許法の解説書などでは、差止ができるという記載がなかったので請求がなかった*8大塚直「生活妨害の差止に関する基礎的考察ー物権的妨害排除の請求と不法行為に基づく請求との交錯ー2」『法学協会雑誌』103巻6号(1987)1203ー9頁)。そのため戦前においては特許権侵害などにおいて専ら刑事事件として立件して、警察による押収に任せたのである。
一方著作権法においては初めから「本権ノ訴」が予定され、その付随的規定である仮差止、仮差押の規定を置いていたので、民事事件における差止は一般的に行われていた。昭和初期に音楽著作権の分野でプラーゲ旋風という著作権料取立事件が生じたのは、*9大家重夫『ニッポン著作権物語』(出版開発社、1981)による)著作権法にこのような規定があったからである。
このようなことが改善されるのは、物権的請求権の理論が定着した昭和以降のことである。日本における知的所有権の保護が薄いという非難はこのような背景にもよる。
権利の発生と裁判所の役割
特許や商標は、特許庁に出願して後、審査主義の国においては審査をして権利が発生する。また著作権は無方式なので、著作物が完成した時点で自動的に権利が発生する。
既に述べたように、国によって法制が全く異なり、ややこしいのが意匠である。日本とアメリカ、イギリスでは出願後に審査が行われる。
ドイツでは以前は裁判所に出願されていた(現在は特許庁)。そして裁判所の権限によって権利が発生するのである。実用新案は特許庁に出願されるが、国王の権限の代行者である官庁ということでは変わりがない。
フランスでは、意匠はある種の封筒に入れて国際機関に寄託し、必要があると寄託の日時と内容が証明される(提案者の名前に従ってソロー封筒といわれている)。しかしフランスは無審査であって何の権利も発生しない。むしろ作品を作った段階で権利が発生しているのを公的な第三者が確認するのである。
だからドイツとフランスはともに意匠を官庁に提出するだけなのであるが、ドイツではそれによって権利が発生するのに対し、フランスでは意匠が作られた時点で権利が発生しており、寄託は単にその内容の証明に過ぎないとされている。
ところで、裁判所が個人の権利を発生させたり変更したり、また証拠を確定する能力があるとしたのは中世のフランク法である。当時はもちろん封建制度の時代であって、従来の部族法から王の命令で強制的に行われる王法への移行の時期でもあった。*10以下の記述は、ゾーム、久保・世良訳『フランク法とローマ法ードイツ法史への序論』(岩波書店、1942)等による。)
この時期に国民の権利は王から発せられ、裁判所は、領主、さらにはその家臣により運営されて、王の出張所の扱いを受け、国民の権利の発生や登録(土地の売買・農奴の解放など)を裁判所が王権の延長として行うものとされていた。発明に対する特許権も同じである。また裁判所は証拠を確定する権能も持っていた。裁判所に不服があれば順に上級審へ出訴ができる理屈ではあるが、最高の裁判所は国王であり、国王は絶えず国内を移動しているので、それを追いかけることは実際にはできなかったのである。改正前のドイツ意匠法が意匠を裁判所に寄託させるとしたのは、潜在的にこの裁判所の権能を意識していたと思われる。
これに対しフランスの裁判所が行政庁の決定に関与できないという原則は、フランス革命後の司法制度において、それまで魔女狩りにばかり専念していたような反動的な司法が革命へ介入するのを禁止する目的で立てられたことなので、裁判所は完全に中立的な第三者である。ドイツにおける裁判所に登録された意匠とフランスにおける国際機関に寄託されたソロー封筒の効果が基本的に違うのはこの点に由来しているのである。
なお行政官庁に法律の所管があるというのがあるのは、ドイツ法においてのみであり、日本もそれを受け継いでいる。*11堀内健志『ドイツ「法律」概念の研究序説』(多賀出版、1984)28頁)
陪審制度と実質証拠の原則
裁判所について述べたついでに、陪審制度と実質証拠の原則の関係についても触れることにする。これは英米法系において特徴的である。
イギリスにおいては、上級審は下級審の認定した事実を尊重する習慣があった。下級審はその地の証人を集め、陪審員を呼んで証拠を審理するが、上級審は場所も異なり、証拠調ができないのである。したがって、証拠や事実認定については下級審が間違っているという判断をする根拠がない。だから尊重されなければならない。このような事実認定についての慣習は、さらに裁判において公的専門機関の専門的な判断を尊重するという形で拡大した。これは初めはイギリスで行われたが、当然アメリカでも行われ、司法は法律判断のみを行い、事実認定は専門行政機関に任せるという慣行が発生したのである。*12山田準次郎「英米法の行政行為司法審査における法律問題と事実問題」『法律論叢』(明大)34巻2・3・5号(1960・61)による。)
ただ司法が法律判断のみを行うといっても、法律判断は事実と絡み合っており、何が事実判断で何が法律判断であるかは一律に線を引くことが出来ない。それで最終的に提起されたのが一九三〇年代に出された実質証拠の原則である。しかし実質証拠の原則を採る場合には、行政庁の恣意的な判断を避けるために、判断基準となる規則が大量に必要となって来る。アメリカのFTC(公正取引委員会)はこのような基準作りに追われたし、日本の独占禁止法を見ても「不公正な取引についての一般指定」など細かな指定や規約が多い。そして実質証拠の原則はアメリカでは一九四六年に法定されたのである。
日本においても、現在特許庁の行った審決について、裁判所は事実認定については適法か否かの判断を行うが、技術上の判断の可否については、それを否定することがほとんどない。事実上専門行政庁の判断ということが尊重されている。
ここのところ日本ではアメリカの陪審制度について異論が多い。かつて日本のほとんどの電算機メーカーがおとり捜査の網に掛かり、IBMの技術を盗んだとされたときに、日本電気だけは無傷だった。その後同社の支配人の方から伺ったところでは、同社は世界で最初にオールトランジスター・コンピュータを開発し、その模型がボストン博物館でIBMのコンピュータと並んで展示されているとのことである。したがって同社の技術開発にはオリジナリティーがあると主張する場合、陪審員にそれを示せばよい。だから同社はオリジナリティーがないという主張にはいつでも反論できるので、決定的な特許侵害訴訟からは免れている。
ミノルタの訴訟の場合、同社のカメラが最初の宇宙旅行で使われたということをどの程度陪審員にアッピールしたであろうか。陪審制度を拒否する前に日本の企業がやらなければならないのは、日本の過去からの技術発展を外国に理解させるということである。
フランスとアメリカの特許制度は、共に初め雛型を提出する制度を採り、これがその後科学博物館に移行し、ドイツではプロイセンが特許制度を創設する際にフランスの制度を模倣し、科学博物館も一緒に設立したといういきさつがある。アメリカでは、かなりの企業で、創業当時からの製品を展示していることが指摘されているが、これには何らかの社会的な必要性がある。日本が陪審制度に対抗するためには、それなりの基盤整備が必要なのである。